「受ける」ことの苦しさ

先主日の礼拝説教で、「愛の業」について御言葉に聞きました。その際、「受けるより与えるほうが幸いである。」との主イエスの教え(使徒言行録20:35)にも教えられました。

 

礼拝後に、ある姉妹からこういう問いかけをいただきました。

「与える方が幸い。本当にそうだと思います。むしろ、与える側の方はすっきりして気が楽かもしれない。でも、受ける側というのは、心苦しいものなのですよね。迷惑をかけたくない、そんなにしていただいては申し訳ない・・そういう、受けることの苦しさというのがありますね・・。」

 

そんな問いかけから、様々なことを思い巡らすことがゆるされました。

 

与える方よりも、受ける方が難しい。そして、苦しい。
自分をかえりみても、本当にそうだなと思います。そして、考えていくほどに、それこそが人間の罪のとても重要な局面であろうと思いました。

 

結局、「受ける」ことに抵抗のない人は、真に砕かれた人ではないでしょうか。
もちろん、無責任に働く意志もなく受けようとする人、もらって当たり前との図々しさのある人などいますが、ここではそれを置いておきまして、姉妹が言っておられたような場合での「受ける」です。

 

確かに私たちは「受ける」ことで負い目を感じ、早く返したいと思う。
それは、自分に返す能力があると自負しているからであり、自分は人から憐れみを受けるような存在ではないとの思いと、きっと裏腹でしょう。

 

でも私たちは、「返す」能力を持たない者としての、自分を受け入れていく必要がある。
それが、「心の貧しい人の幸い」に通じていくような、徹底的に神の前で砕かれていくという過程であると考えます。

 

人間に対してなら、ある程度は返すこともできる。と、思っている人が多い。
でも、そんな人でも、神には返すことはできない。
私たちはだれも、神に返すことはできないし、神の助けがなければ立てない。
それを決して認めずに、自分で自分を立たせることができると考えるのが「罪人」です。
自分たちで自分たちの名をあげようと、高ぶって作ったバベルの塔が、そんな罪の象徴です。

 

そういう自分の罪に目が開かれて、神の前で砕かれている人は、おのずと隣人の前でも砕かれているものではないでしょうか。
逆に言えば、隣人の前で、「受ける」ことの心苦しさを覚える心には、「神への傲慢=自分で自分を救おうと考え、救うことができると過信している愚かさ、悲しさ」などの罪の「根」が宿っていると言えるのではないでしょうか(それは小さな小さな根に過ぎないかもしれませんが)。

 

私たちはみんな、そんな罪を認識し、砕かれていき、開かれていくべきでしょう。
「受ける」ことの難しさ、苦しさに理解を示すにとどまらず、そこから解放されていく道を、みんなで聖書から探り求めていかねば、私たちはきっと永遠に苦しいままなのでしょうね。

 

また姉妹は、神に対してならまっすぐに感謝が向かうけれど、隣人には難しいと言ってくださいましたが、これも考えてみると、そうも簡単に割り切れないかもしれないなあと思いました。


絶対他者である神との関係は、相対他者である隣人との関係におのずと反映されるというのが聖書の教えです。
私は思うのですが、結局私たちが他者に対してどのように振舞うか、私たちの兄弟姉妹に対する態度というのは、私たちが神様に対してどのように振舞っているのかを、鏡のように映し出しているのではないでしょうか。
神の前で完全に砕かれている、負けを認めている人であれば、兄弟姉妹の前でも、隣人の前でも、貸し借りなどの感覚に縛られることなく、差し出されるやさしさを素直に受け入れることもできるのではないでしょうか。

 

それができないで、「受けることの不幸」を抱えたままでいる私たちの心というのは、深い深いところで、罪に縛られている不自由さを抱えているのだなあと・・考えさせられました。