唯一の主イエス・キリストを信じる③

 パウル・シュナイダー牧師が戦ったような信仰の戦いを、私や、私の仲間たちも戦わねばならない時が、来るかもしれないとの覚悟をもっています。

 

 参議院選挙が近づいていますが、自民党政権が圧勝することになれば、改憲ということがいよいよ現実味を帯びてきます。自民党の改憲草案には、有識者による様々な問題が指摘されていますが、今はそれは触れません。

 

 私と教会にとって、直接的な問題は、改憲によって信教の自由を奪われる(国家によって圧迫される)かもしれないということです。

 

 私は政治的・社会的問題に対する視野が狭く浅く、十分な知識をもたないで憲法問題や、その他の政策問題に論及することにためらいを覚えます。でも、この問題だけは、決して黙っているわけにはいきません。これは私にとって、政治的・社会的関心からの思考ではなく、信仰告白の問題だからです。唯一の主イエス・キリストを信じ、彼にのみ従うという、自分自身のなした信仰告白に忠実であれるかどうかの問題だからです。

 

 すでに改憲前から、日の丸・君が代の強制という仕方で、東京都や大阪府の教員が信仰的良心を圧迫されています。これらの方々は、日の丸・君が代を、「軍国主義」および天皇教とでも呼ぶべき戦前の「国家神道体制」の象徴と見なし、これを掲揚・斉唱することは、イエス・キリストのみを主としその愛の道に従うという、自分自身の信仰の良心に反すると考える立場であろうと思われます。

 

 いわゆるクリスチャン、すなわち洗礼を受けてキリスト教会に会員籍のあるすべての方が、このような理解に立つわけではありません。また、立たねばならないとは言いません。ただ、少なからぬクリスチャンが、そのように考えていることは事実です。そして私も、同じ立場であることを表明するものです。

 

 戦前のキリスト教会の主流は、国家の圧力に屈して「イエス・キリストよりも天皇が偉い」と、事実上は認めてしまったと言わざるを得ないような、行動をとりました。

 

「神社参拝は宗教ではない」という国家の論理を受け入れることで、自らの後ろめたさをごまかし、事実上の偶像崇拝を主日礼拝の中で行いました。のみならず、朝鮮の教会に対しても、その論理をもって神社参拝を強要しました。このようなことをキリスト教会は二度と繰り返してはならないと、私は考えます。そして、そのような状況に、教会が追い込まれるような社会に、この日本という国がなってほしくないと、強く願い求めています。

 

 しかし、今度の改憲においては、信教の自由を定める第二十条で、「国および地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。」とあるのに続き(ここからが問題!)、「ただし、社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない。」と加えられています。

 

 これは現在すでに閣僚などが靖国神社に参拝するときに展開している論理である「靖国神社参拝、戦没者の慰霊は宗教ではない」という論理に、憲法的な裏づけを与えようとするものであるように、私には思えます。(自称クリスチャンの政治家が、靖国神社に参拝する時も、おそらく同じ論理によって行動しているのでしょう・・・。私には決定的に残念なことに思えます・・。)

 

 そしてそのような展開は、「神社参拝、天皇崇拝は宗教ではない」という、あの戦前と同じ論理へと発展し、イエス・キリストのみを主として礼拝するという歴史的正統教会の信仰告白に圧力を加える国家の声となっていくことを警戒します。

 

 その国家の声は「日本人なら、そうするのが当たり前だろう」という意識を民衆に受け付けます。そしてマイノリティであるクリスチャンに対し、大多数者から「宗教的寛容」を要求されます(・・・本来、寛容とは多数者による少数者に対する配慮であるはずですが・・・)。

 

 みんなが疑わずに崇めているもの、みんなが心を一つにしようとして崇めているものを、崇めない者たちに対するこの国の人々の非情な「不寛容」は、歴史が証明していることです。現時点ですでに、一部のクリスチャンには「非国民」との誹謗がなされています。改憲により、いよいよ国家規模において、そのようなことが繰り返されることを、私は警戒しているのです。

 

 そのような信仰告白の戦いを、しっかり戦うことができるように、主が強さと勇気を与えてくださることを祈ってやみません。

 

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